自由時間手帖

JR九州

嵐のあとの 渓谷へ

管啓次郎

著者と旅のご紹介 ハロー!自由時間クラブとは?

夏休みを取り損ねていた。大学の語学教師というと、授業がない期間はずっと休みだと思われがちだ。しかし授業がなければ休みというのは学生の話で、学部や図書館の業務はずっと続いているし、何より学期中はほとんど手がつけられない専門分野の論文書きなんかは、学期が終わったその瞬間から本格的にはじめるしかない。それで鈍い頭をごんごん壁にぶつけながら、どうにかこうにか英語の作文をかたちにしたころには、休みを1日もとらないままに8月が終わろうとしていた。

これでは精神に悪い。9月になってから旅に出ることにした。行ってみたいところはあった。大分県南部の佐伯市だ。

ぼくが幼児のころ最初に覚えた鉄道の路線名は「日豊本線」。まだ幼稚園にも入らないころの一時期、身を寄せていたのがここ佐伯の祖父母の家で、家の裏手、たぶん200メートルも離れていないあたりで田んぼの中を線路が走り、1日に数回そこを汽車が走っていた。祖父が飼っていた巨大な虎毛の秋田犬の散歩につきあいながら、煙をあげ汽笛を鳴らしながら走る長い長い貨物列車が、やがて山陰に隠れていくまで見送っていたのを覚えている。

そう思うと、確証はないが、あのころはまだ過渡期だったということか。乗客を運ぶ列車はディーゼル車が、貨物車は昔ながらのSLが、牽引していたのだろうか。これは1960年代前半の話で、いうまでもなく蒸気機関車のほうが圧倒的な力強さを感じさせた。あこがれのまなざしで機関車を見送る幼児にむかって、祖父が「にっぽうほんせん」という名を口にしたのだろう。それでぼくは、鉄道一般のことを「日豊本線」と呼ぶのだと、たぶん小学校に入るまで勘違いしていたようだ。

それぞれの出身地が遠く離れた両親をもち、転々と引っ越しながら育ったので、ふるさとと呼べる土地は特にない。それでもぼくにとって、日本の田舎の原型といえるのは佐伯。山、海、川のすべてがある小さな城下町で、人生のごく初期の思い出のいくつかがこの町とむすびついていた。幼いころ、あれはどういう仕掛けだったのか、家の黒い電話器はまだハンドルをまわすタイプだった。叔母がその電話で「ハイヤー」を呼ぶのに「鶴城のバックネット裏」という言い方をしていた。佐伯鶴城高校の野球グラウンドのバックネットがある側に面した家という意味だ。

その家から祖父母に連れられて別府まで出かけたことも何度かある。佐伯駅から出発し、津久見で凍らせたみかんを買ってもらう。それを食べながら、一瞬たりとも飽きることなく窓の外を見ているうちに(いったい何時間かかったのだろう)やがて別府に着くと、常宿にしていた町中の小さな温泉旅館の番頭さんが出迎えてくれる。宿での滞在は遊び相手もいなくて、はなはだ退屈だった。これで温泉ぎらいになった。ラクテンチという遊園地に行き、あひるの競走で賞品のキャラメルをもらうのが唯一の楽しみで、あとはおとなしくしていた。子供たちにあひるに賭けさせて、ゴール順により賞品を与えるという、射幸心を植えつけるような遊びだった。当然、たまらなくおもしろかった。

その後の小学生時代の何度かの夏休みを含めて、ぼんやりとした幸福と退屈の記憶に彩られた大分県だが、祖父母が亡くなってからは訪れることもなく、三十年以上が過ぎてしまった。毎日のように遊びで登った城山(佐伯城跡)、けっこう荒い波の中を泳いだ波太の浜、川遊びに熱中した番匠川など、いま行ったらどんな姿になっていることだろう。

出かけることにした。

鉄道を選んだ。新幹線で小倉まで。そこが日豊本線の起点。これで佐伯にむかう。小倉からは大分駅で特急「ソニック」から「にちりん」に乗り換える。この待ち時間を入れるとどうしても三時間半ほどかかってしまうが、まるで苦にならない。鉄道駅での待ち時間、その自由な空白は、もともと大好きなのだ。文庫本でも読んでいるうちに、たちまち過ぎてしまう。地図を見れば明らかなように、日豊本線は激しく曲がりくねっている。山地がほとんどで山が海と接している所の多い日本列島の特質を、特に紀州から四国を経て九州という南の土地の連なりにおいては、いやでも思い知らされる。山が深く、平地は狭く、緑が濃く、人が多い。すみずみまで人が住んでいる。これも思えば土地の根源的なゆたかさのしるしなのだろう。

鉄道のひとり旅は、夢想が道連れ。やがて夢想と現実が二重写しに見えてくる。かつてたしかにあった過去と、そうもありえた過去。いまいる自分と、どこかにいる別の自分。すでにカウントダウンに入っている未来の、不確実だけれどそれだけ魅惑にみちた自由。時間と空間がぐるぐると渦巻き、乗物酔いでも酒酔いでもない、快い別の酔いがしだいに高まる。

特に津久見をすぎたあたりからは海と山のあいだを行くという雰囲気が強くなり、こみあげてくるようななつかしさにひたりながら見え隠れする濃い青のひろがりを見るうちに、佐伯に着いた。駅前に関しては子供時代の記憶はないに等しい。日本の古い町の鉄則で、繁華街は鉄道駅から1、2キロ離れたところにある。石炭車の時代には煙を避けるため、鉄道駅はどこも町外れに作られていた。ともあれ、いまはなんの変哲もないように見える駅前近くのビジネスホテルに荷物を下ろし、夕方の中を歩きはじめた。子供のころの祖父母の家にむかって、そして城山にむかって。

このセンチメンタルジャーニー的部分は、特におもしろくもないので省略します。結論だけ記すと、城山からの眺めはすばらしかった。理想的なロケーションをもった小都市が、絵のようにひろがっていた。食事に出れば豊後水道を背景とする鮨屋はうまく(ドバイにまで握り鮨の出前をしたことがあるとか)、いまでは郷土の味として売り出されている「ごまだし」は圧倒的になつかしかった。エソという魚の焼いた身をほぐし胡麻を加えて醤油や味醂で味を整えつつひたすら摺ったもので、見た目は味噌状の、うまみが濃縮されたペーストのことだ。作るにはけっこうな手間がかかるがそれだけの味が保証されていて、このペーストを茹で上げたうどんに載せて食べれば、他には何もいらないくらい満ち足りた気持ちになる。叔父がこれを好み、元気なころは、毎年自分でこれを作っては瓶に詰めて送ってくれた。だからぼくにとっては、長いあいだ佐伯とのもっとも確実なつながりは、ごまだしの味だったともいえる。

そのごまだしが、思いがけない場所を見せてくれることになった。

着いた翌日、姉と兄が短期間通っていた小学校付近を見に行き、そこから古いアーケード付き商店街「仲町」のほうにぶらぶら歩いていった。アーケード街の手前にいかにも店相のいい気取らない食堂があったので早めの昼食のために入ると、ここの名物がごまだしらしい。迷わず注文すると、エソと胡麻の味わいがふくよかに口にひろがり、思わず「うまい!」と声に出してしまった。それがきっかけでカウンターの中で働いている若いご主人と話をした。ほんとうにひさしぶりに佐伯に来たこと、ごまだしの味に叔父や祖母を思い出したこと、海と川でさんざん遊んだことなど。ちょっと町を離れて山のほうにも行ってみたい、とぼくがいうと、彼が間髪入れずにいいところありますよという。信じられないくらいきれいな場所。遠いけれど、その価値はあります。心が洗われる場所っていうか。それが藤河内渓谷の名前を初めて聞いた時だった。


翌日、行ってみることにした。今回の旅はできれば鉄道と、せめてバスだけに交通機関を限るつもりだった。しかし地図で当たりをつけると、渓谷にはとてもじゃないが車がなければ行けない。日豊本線の最寄り駅は「宗太郎」。佐伯からは各駅停車でわずか五つめ。そこまで電車でとも思ったが、この無人駅に停まる電車は上り下り合わせて一日に三本だけなのだ。仕方ない。方針を変え、佐伯でレンタカーを借りて出発することにした(ちなみに宗太郎駅そのものは、国道10号線を走ってゆけばわかりにくい場所ではない。目的地からの帰路に少し遠回りをして寄ってみたが、剝き出しのプラットフォームと小さな待合室だけの、愛らしい駅だった)。

国道10号線から326号線へ。「道の駅宇目」に立ち寄り道を確認し、宇目温泉や発電所にむかうローカルな道に入る。すべてを通り越して、どんどん行く。山の雰囲気がぐんぐん高まってくる。当然道は曲がりくねっている。先週の台風でたたき落とされた木の枝や落石が、まだところどころの路上や路肩に散らばっている。嵐の時は、さぞ恐ろしかっただろう。日本列島はじつは気候が荒い。

まだ先なのか、大丈夫かな、と訝しく思いはじめたとき、渓谷についた。キャンプ場があり、木造の建物がある。人はみごとに誰もいない。駐車された乗用車が二台ばかり。すでに夏が終わり、しかも台風が過ぎたばかりの平日では、遊びに来る人はいなくて当然か。これも日本のいいところで、人が充満した都市という空間の共有、あるいは一斉に人がおなじ方向に移動するという時間の同調を避ければ、ぽかりと空いた場所に出会うことがいくらでもできる。

ぼくは車を停め、すぐそこを流れている川の水音にむかった。すると。

ここで高速撮影とかドローンによる鳥瞰とか、劇的な音楽とか逆に完全な無音といった効果を使ってみたいところだけれど、現実にはこの肉眼、この耳が経験するそのままの光と音しかない。しかしそれは、その場所に湧き出る力に、存在の底から圧倒されるような瞬間だった。



巨大な花崗岩の一枚岩がどこまでもつづいている。その上を勢いよく水が流れ、何万年もかけて岩を削ってきた。流体の複雑な動きにしたがって岩が削れ、あらゆる優美な曲線をもった巨大な彫刻になっている。水は幾すじにも分かれ、あるところでは小さな滝、あるところではごく細いが深くえぐれた回廊を作り、またあるところでは岩の表面全体を濡らすような浅く広い流れとなって、その先でまた合流し、また分かれ、水音のあらゆるパターンがこの一帯にひろがり、それらが同時に聞こえる体験したことのないオーケストレーションが渓谷をみたし、秋の明るい日射しがふりそそぎ、気持ちのいい風が吹いている。

聖地か、ここは、とぼくはつぶやいた。

大げさだと思われそうだが、ほんとうの気持ちだ。地水火風の流動こそ、この世界の実相であり、われわれをもっとも覚醒させ、大きな勇気を与えてくれるものだ。岩が水に削れ、太陽がそれを乾かす。風が樹々に歌わせ、地鳴りのような水音を重層化する。時を超えて変幻する巨大な岩の片隅に寝そべり、つい昨日まで知らずにいた、誰もいないこの場所を心ゆくまで体験する。藤河内渓谷への旅は、ぼくにとって遅れてきた、最高の夏休みになった。

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