自由時間手帖

JR九州

長崎へ、 『光』を観に行く

酒井順子

著者と旅のご紹介 ハロー!自由時間クラブとは?

東京で生まれ育った私は、西へ旅する時はいつも、距離とともに時間をも移動しているような気持ちになるのでした。歴史の深層へと、潜入していくような感覚になるのです。
中国大陸や朝鮮半島を経由して、多くの文化を取り入れてきた、日本。外国の人達が最初に踏む日本の地となることが多かったのが、九州です。
中でも長崎は、外国との結びつきが深い地。島が多い長崎は、陸路は移動がしにくいイメージがあります。鉄道好きで有名な内田百閒も、『第三阿房列車』(新潮社)の中の「長崎の鴉 長崎阿房列車」で長崎を訪れていますが、東京発の急行列車「雲仙」が長崎に到着するまで、28時間(昭和29年当時)。さすがの百閒も、
「長崎の道は遠いなあ」
と、途中でつぶやいています。
しかし、海路の時代の長崎は、世界と繋がっていました。国内に対しても国外に対しても、長崎は開けた地だったのです。
長崎の旅のスタートとしてまず私がおり立ったのは、佐世保。この地には、かねて私が「もう一度食べたい」と願っていたものがあるのです。
かつて銀座にあったステーキハウスには、「レモンステーキ」というメニューがありました。薄切りの牛肉をさっと炙り、特製のソースとたっぷりのレモン果汁で食すこの料理が私は大好きだったのですが、いつしかお店が、なくなってしまったのです。しかしそのステーキハウスの創業店『れすとらん門』があるのは、佐世保。「久しぶりにあの味を」と、勇躍やってきたのです。

シックなお店でお願いしたのは、もちろんレモンステーキ。今では佐世保のあちこちにレモンステーキを食べられるお店があるようですが、発祥の地はこちらです。「じゅうっ」という音と共にやってきたレモンステーキとは、何年ぶりの邂逅か……。
記憶と同等、もしくはそれ以上の美味しさに、私の脳裏には「江戸の仇を長崎で討つ」という一文が浮かびます。ま、意味は違うけど。シメとして、余ったソースにごはんを投入してペロリと平らげれば、旅のエンジンがすっかりかかりました。
坂道が多い佐世保には、入り込んでみたくなる坂があちこちにあります。しかし先を急ぐ私は、後ろ髪を引かれつつ、佐世保駅からシーサイドライナーに乗り込みました。

佐世保を出てしばらくすると、列車は大村湾の東岸沿いを走っていきます。内田百閒が「長崎阿房列車」で乗った急行「雲仙」は、“関門隧道”を通って九州に渡り、博多を通って鳥栖から長崎本線へ。今のルートとは少し違って肥前山口で、佐世保線に入ります。その後佐世保を通って、早岐からは大村線に入るのでした。
大村線での百閒は、
「美しい水の色と、その水色に照り映える空とを区切った向うの西彼杵半島の山の姿をよく眺めたい」
と思っています。が、「傾きかけた西日が車窓一杯に射し込むので、みんな窓の日除けのカアテンを下ろしている」ということで、景色をろくに見ることができなかったのです。はるばる鉄路でやってきたのにこの景色が見えなかったとは……と、百閒先生への同情が募りました。

百閒先生に申し訳ないような気分になってきますが、私は景色を堪能すべく、進行方向右側の、海がよく見える席を確保しておりました。この日は曇天であり、西彼杵半島の山の姿は霞み気味ではありましたが、雲間からは神様が降臨してきそうな光が、海をドラマチックに照らしています。地元出身の方の話によると、大村湾を最もよく見ることができるのは、車窓からなのだそう。
目のご馳走を堪能しているうちに、諫早に到着しました。百閒先生は「雲仙」に乗りつづけてさらに長崎まで向かいましたが、私はこちらで下車して、島原半島へ。

島原半島は、島原の乱、島原大変……と、様々な歴史的事件に見舞われた地です。しかし今、島原の城下町を訪ねると、そこはあちらこちらで美しい水が渾々と湧き、鯉がのんびりと泳いでいました。

しっとりと落ち着いた町をそぞろ歩く途中に賞味したのは、「かんざらし」です。そこはかとないコクがあるほの甘いシロップの中に、直径1センチほどの小ぶりな白玉がいくつも泳ぐ、この一椀。白玉粉の原料であるもち米を寒い時期にさらすことから「かん(寒)ざらし」なのですが、その味の上品なことと言ったらありません。

茹でた白玉を冷やすのに使用されているのは、島原の湧水。豊かな水無くしては、この一品は存在しなかったのであり、お腹の中が清くなりそうな味。
島原半島は、全体が豊かな水に恵まれています。東シナ海から吹く風が雲仙の山々にぶつかって雲を作るため、一帯は九州でも降水量が多い地の一つ。また、雲仙の火山から噴出した溶岩がつくった大地にその水が浸透し、湧水となるのです。
もちろん温泉も、雨と火山との働きによってもたらされたもの。今夜の温泉が、楽しみです。

車で山を登るにつれ、硫黄のにおいが、次第に漂ってきました。『雲仙九州ホテル』で下車した時は、すでに暗くなっていましたが、そのにおいに一気に包まれることによって、どのような地であるかが理解できるのであり、それだけでも「効き」そうな気持ちになってきました。
観光地としての雲仙の歴史は古く、日本で最初の国立公園に指定された地となっています。上海に居留していた外国人達の避暑地として親しまれ、外国人向けにこのホテルが創業したのは、大正6(1917)年のこと。今の日本も、訪日観光客すなわちインバウンドを盛んに呼び入れていますが、当時の日本もまた、海外のお客さんを盛んに招き入れていたのです。

今は現代的なリゾートホテルの雰囲気が漂う『雲仙九州ホテル』ですが、創業当時の写真を見せていただくと、クラシックな洋館で、何とも洒落ています。ディナーをいただいたレストランは当時の雰囲気がそのままで、舞踏会などが似合いそう。

ゆっくりと温泉を堪能し、一晩明けた朝。部屋のカーテンを開けた瞬間に、私は驚きの声を漏らしました。目の前に「地獄」の光景が、広がっていたのです。

もちろん、閻魔様が手ぐすねを引いている訳ではありません。地獄とは、温泉ガスが涌出して、あちらこちらからもくもくと蒸気が吹き出す地。草木は生えず、岩肌がむき出しの「地獄」ビューのお部屋から、私はしばし、その光景に釘付けになっていました。自然は時に人間に対して猛威を振るいますが、そんな自然がもたらす荒々しい光景のギリギリまでやって来て、眺めてみたりお湯に浸かってみたりする人間の好奇心の強さもまた、相当なものではないか、と。
この日の島原は快晴で、青空に地獄の噴気が映えていました。かつてこの地にやってきた外国人観光客達も、同じ風景を愛でたことでしょう。「観光」とは、中国の『易経』の中にある「観国光」から取られた言葉であり、その地の「光」、すなわち輝くような素晴らしいところを観る、との意です。途切れることなく吹き上がる水蒸気の白さもまた、百年前に上海からやって来た外国人達にとっては、特別な「光」だったに違いありません。
雲仙から長崎市へと向かう途中で通ったのは、「千々石」という地名でした。ほど近くにある釜蓋城の城主の子として生まれ、やがて伯父で日本最初のキリシタン大名・大村純忠のもとで洗礼を受け、他の三人の少年とともに天正遣欧少年使節としてヨーロッパを訪れたのが、千々石ミゲル。長崎の地名は、かつて生きた人々の歴史を語ります。

長崎市に到着すると、「ここはやっぱり」と、ランチにちゃんぽん、及び皿うどんをいただくことにしました。長崎には中国の人々も大勢やってきたのであって、長崎新地中華街を歩けば、その昔、唐人達が賑やかに歩いていた様子が目に浮かびます。近くの公園では、ランタンフェスティバルの用意も進んでいました。

中華街の中の『江山楼』で食したちゃんぽんも皿うどんも、彩り鮮やか。そしてどちらもほの甘い味つけが、長崎風です。江戸時代は、長崎に荷揚げされた砂糖が、全国へと出荷されていました。長崎街道の別名は、「シュガーロード」。だからこそ長崎では、何でも甘めの味付けが多いのだそうです。
甘さは、旨さ。この甘さが「長崎に来た!」という感慨と満足感とを与えてくれるのでした。

くちくなったお腹を抱えて、街をぶらぶらと歩いてみた私。中島川にかかる眼鏡橋は、中国から渡来した僧によって、寛永11(1634)年に架けられたと伝えられたものなのだそうです。今は、中国から観光にやってきた人達が、そこで記念写真を撮ったりしています。眼鏡橋という長崎の「光」が、かつて中国の僧からもたらされたものであるということを、彼等は知っているのかいないのか。
長崎もまた坂の町であるわけで、上りたくなる坂が、そこここに見えます。あてもなく入り込んでみれば、色鮮やかな中国風の建物と、古い洋館とが軒を接していたりしています。それは長崎ならではの様々な「光」が、混じり合う、綺麗なカクテルのような風景なのでした。

旅の終わりは、外海地区まで足を延ばしました。昨日、大村湾の東岸を走る列車から眺めたのは、対岸にある西彼杵半島の東側。今から向かう外海地区は、西彼杵半島の西側で、地名の通り、外海に面しています。長崎市ではあるものの、長崎市街地からは車でも1時間以上かかり、列車も走っていないという、陸の孤島的な地。
遠藤周作は、この地をモデルとして「沈黙」を書き上げました。外海にある「沈黙」の碑には、
「人間がこんなに哀しいのに主よ海があまりに碧いのです」
とありますが、外海から見る海の碧さは、確かにただならぬものがありました。昨日眺めた大村湾とはまた違う、何かからこの地を隔てるような、深い碧さ。
背後には山が迫り、耕作地は少ない。目の前は、海。そんな貧しい地であった外海の出津という地に、明治12(1879)年にやって来たのが、フランス人のマルコ・マリ・ド・ロ神父です。

建築を得意としていたド・ロ神父は、出津教会堂、大野教会堂等をつくります。しかしド・ロ神父は、布教だけをしていたわけではありませんでした。産業が少ないこの地域の人達が、将来にわたって自立した生活を送っていけるようにと、様々な授産施設を作ったのです。特に女性達の手に職をもたらすことによって、その女性達の家庭をも明るくしようと、ド・ロ神父は思っていたのだそう。
ド・ロ神父は、大浦にいた外国人から注文を受けて洋服を作ったり、助産婦を養成したり、マカロニや素麺といった食品加工をしたり(日本で初めてマカロニが作られたのはこの地!)。

ゆかりの施設で、ド・ロ神父について説明してくださるのは、シスター達でした。ド・ロ神父が母国から送らせたオルガンをシスターが弾いてくださると、今もしっかりとした音が響きます。
シスター達も地元の方々も、ド・ロ神父に会ったことがある訳ではありません。しかし神父のエピソードを、この地の方々は皆、親しみ深く話されるのでした。
「ここで作ったマカロニは、長崎の外国人にも大人気だったそうですよ」
「ド・ロさまは、とても面白い方だったそうなんです」

といったお話をうかがっていると、神父と地元の人々との深い結びつきが、今も続いているかのようなのでした。
フランスの貴族の生まれでありながら、四十六年もの長きにわたり日本に滞在し、この地のために力を尽くしたド・ロ神父は、日本で亡くなり、出津に眠っています。フランスという遠い地からやって来た神父が、この地に灯した消えない「光」を、今も地元の人々は、大切に守っているのです。

お土産に求めた「ド・ロさまそうめん」を、帰宅してから茹でてみました。神父の指導により作られたこのそうめんは、植物油を練りこんだコシの強い麺なのだそう。普通のそうめんよりもやや太めで、茹で時間は3〜4分。にゅうめん風にして食してみればつるつると喉越しも良く、あの碧い海が思い出されます。
パッケージを読めば、ド・ロ神父は当初、自国の小麦粉でそうめんを作っていたとのこと。のみならず神父はパンも焼いていましたから、当時の出津はかなりのグルメ地帯だった気もします。
色々な国からやって来た外国人によって、様々な文化を伝えられた、長崎。それが日本文化と合わさって独自な発展をした姿が今もあちこちで見られるのであって、「ド・ロさまそうめん」もその一つ。デザートにと、やはり長崎で求めたカステラを切ってみればそういえばこれも、ポルトガル伝来のお菓子だったのでしたっけね……。

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