自由時間手帖

JR九州

私の、 北九州周辺のこと

牧野伊三夫

著者と旅のご紹介 ハロー!自由時間クラブとは?

時刻表 私の父は、高校を卒業すると、北九州市の小倉駅前にあった日本交通公社(現在のJTB)に就職して働きながら、市内にある大学の夜学に通った。本当は就職をせずに、もっとランクが上の大学へ通いたかったらしいが、家に金が無かった。行きたい大学に合格するだけの十分な学力はあったのだ、という話は、耳にタコができるくらい聞かされた。

会社では、大卒よりも待遇は良くなかったが、負けたくないと思っていたから、他の社員たちよりも早く出社をして、社内の机をふいてまわっていたらしい。ときは昭和三十年代、日本は高度経済成長の頃で景気は右肩上がり、会社は大忙しだった。父が修学旅行などの団体旅行の引率をして、九州から北海道まであちらこちらを旅した写真が家の古いアルバムの中にある。まだ九州まで山陽新幹線が通じていない時代で、多くは夜行列車の旅だった。

長男であった父は母と結婚後、しばらくして会社を辞め、祖母がやっていた食料品や日用雑貨を扱う「牧野商店」というよろず屋のような小さな店を引き継ぐことになった。その後、次第に店を拡張していき、スーパーマーケットの経営をはじめ、私はその頃に生まれた。東京でオリンピックが開催された一九六四年である。

父は会社に勤めていたときに、小倉駅から主な駅までの鉄道の距離をすべて暗記していた。これは、鉄道の旅客運賃が距離に比例して割り出されるため、早く計算できて便利だから覚えたらしい。今年で八十一歳になるが、つい最近まで駅名を言うと、ぱっとそこまでの距離を答えることができるのにはいつも驚かされた。家には、いつも大きな時刻表が置かれていて、とくに旅に出る予定もないのに、気晴らしでもあったのか、父はそれをよくめくっていた。ごく薄いページを、小気味いい音をたてながら、パシッ、パシッ、と指でめくる手付きは実に鮮やかだった。小学生だった私は傍らでその様子を見ていて、この分厚い本に一体何が記されてあるのか気になり、あるとき父に見方を教えてもらった。

そこには、列車の発着の時刻だけでなく、列車番号や、駅への入線時刻、駅間の鉄道距離、名物の駅弁当まで、鉄道に関するあらゆる情報が細かく盛り込まれていて、次第に鉄道への愛着が芽生えてくる。

父は得意になって、ひとつひとつ丁寧に教えてくれ、たとえば熊本まで行くのにはどうやって列車を乗り継いで行けばよいか、そしてその料金を割り出せ、などという宿題まで出した。「無賃送還」というルールが鉄道会社にあることも教わった。これは、行先までの切符を買って列車に乗り、降りるべき駅をうっかり乗り越してしまったら、目的の駅まで無料で折り返せるというもの。ホームから出ないことが条件である。時刻表には、ディーゼルか電車かの違いや、寝台特急の等級とその料金、食堂車の位置までも記されていた。寝台特急の食堂車は憧れで、中学になって初めて東京行きの「みずほ」に乗ったときは、うれしくてとびあがった。巻頭に特集された旅案内や、巻末の日本観光連盟がすすめる宿泊施設の広告の写真は、旅への憧れをどこまでも高めていくのだった。思えば、この時刻表の見方を父に教わったことが、私の鉄道旅行好きのはじまりである。

鉄道旅行

高校生になった頃、その時刻表を見て綿密に計画を立て、初めて小倉から唐津の七ツ釜まで一人旅をした。五十を過ぎた今も、このときの旅のことをよく憶えている。駅弁当と、今は無くなってしまったが、L字型のティーバッグ付きの熱いお茶を買って一人うきうきして列車に乗った。窓を開け、顔に風を受けながら、車窓から見える景色に見入っているだけで、家族や学校と離れて自分一人だけの自由な世界へと向かっていく気がした。

時刻表の地図のなかに、線路がまるく輪になっているところを見つけて、そこを通ってみるためだけに鉄道の旅をしたこともあった。その輪は熊本の八代駅と鹿児島の隼人駅を結んでいる肥薩線の途中、大畑駅というところにある。この路線は、九州の南の山を越えて南下するルートだ。小倉から鹿児島本線で八代駅へ行き、肥薩線に乗り換えると、列車はディーゼルのエンジン音をたてて山へ登っていった。途中の人吉駅で降りて、人吉旅館に一泊。趣のある古い木造建築のこの温泉旅館のお風呂には、ベンチを沈めた珍しい浴槽がある。

翌朝、肥薩線に乗ると、輪になっていたところは、スイッチバックという、列車を前へ走らせたり、後へ走らせたりして険しい山の斜面を登っていくようになっていた。車窓から見える景色も美しく、よくぞ、こんなところに鉄道を作ったものだと思った。この列車には、座席のかわりに、細長い座敷がついていて、そこで寝転んだりもできた。木の繁みのなかを走ってどんどん山を登っていくと、ぱっと視界が開けるところがあり、そこで列車が停車し車内のアナウンスがあった。遥かむこうに見える美しい山並みは、霧島連山らしい。景色を見せるために停車するとは、なんと贅沢な列車であろうか。僕はすっかりこの路線が好きになり、鹿児島からの帰りもまた乗ることにした。また人吉駅で下車をして買った栗飯弁当が実にうまくて、後々まで忘れられない味になった。

郷里の情報誌『雲のうえ』 私は高校時代までを北九州で過ごした後、東京の大学へ通い、五十代半ばの現在までずっと東京暮らしである。いまも北九州の実家には父と母がいるので、九州へ旅行するというと、まず、小倉で二人の顔を見てから旅立つことになる。その北九州については、自分の郷里でありながら、東京の友人にどんな街かと聞かれても、うまく説明できず、いつももどかしい思いをしていた。長く離れていたから、街の新しい情報を知らなかったという事情もあるが、歴史についても、食堂や酒場はおろか、鉄道がどこでどうつながっているのかさえ知らなかった。

しかし、幸運にも、絵を描く以外に東京で出版やデザインの仕事をしていたおかげで、二〇〇六年、北九州市が街の情報誌を創刊することになり、その制作に関わることになった。『雲のうえ』という名のこの情報誌は、現在も年に二回のペースで刊行を続けている。毎号ワンテーマで特集を組み、まるで虫眼鏡で覗くように、街の隅々まで、市の職員たちと一緒に取材してまわる。

創刊号では、それまで街の恥部と思われていた、酒場の店頭でするめや豆などをつまんで安く酒を飲む「角打ち」を取り上げた。工業都市のこの街は、製鉄所などで三交代で働いている夜勤明けに酒屋へ立ち寄り、一杯やって家へ帰る人が多いため、角打ちの店が多いのだ。この号は話題となって、全国の角打ちブームの火付け役となった。その後も、市内の山や島、工場、公営ギャンブル、名店、方言などを取材した。

市内を走る鉄道の特集をしたこともあった。本州から九州へ入る玄関口となる北九州市内には、九州の東を南下して別府や宮崎方面へ向かう日豊本線、唐津や長崎、熊本、鹿児島方面へとつながる鹿児島本線、新幹線などが走っている。また、かつて筑豊の石炭を八幡の製鉄所や若松の港、小倉の港に運んだ筑豊本線や、日田彦山線などのローカル線もある。これらの路線にある駅を、東京から来てもらった三人のライターに手分けしてひと駅ひと駅まわってもらい、車窓からの景色や駅周辺の様子を体験レポートしていただいた。最近では、すっかり詳しくなって、出張などでこの街へ寄る友人がいると、名所や飲食店、酒場などを記した地図を書いて渡したり、数人でツアーを組み、自ら案内役を務めるようになったりした。これは嬉しいことだ。

北九州の街は、由布院や霧島、雲仙などの温泉地や長崎の歴史ある教会群、阿蘇や桜島、屋久島などの観光地にあるような情緒ある旅宿も、土産物街もない。かつて港町として繁栄して外国航路のための税関があった門司港や、明治時代につくられ、近年世界文化遺産として登録された官営八幡製鐵所などの観光スポットもあるが、どちらかというと、過去の繁栄の歴史や遺構を見物するよりも、私は現在の街の方に興味がある。北九州でいえば、国内の天然石鹸の草分けである「シャボン玉せっけん」や、産業用ロボットの「安川電機」、ウォシュレットのTOTOなどの工場を見学する方が面白いと思う。工場のラインにも見入ってしまうが、そこで働いている人たちを見て、ああ、街に触れているなと感じるのが楽しい。

かつて北九州工業地帯の中心にあった洞海湾は、七色の海と呼ばれるほど工場排水に汚染され、もはや海とは呼べないほど異様な色をして魚の死骸が浮かび、死の海となっていた。小倉の中心地を流れる紫川もまた、工場排水と生活排水によって黒いどぶ川であった。しかし、この半世紀、市と市民の懸命の努力によって、洞海湾は小魚の群れが泳ぐ青く美しい海に、紫川は、海へ注ぎ込む下流域でカヌーを浮かべ、子供たちが泳げる川となった。

昔を知っている私は、はじめて小倉城の石垣から飛び込む子供の姿をみて、信じられなくて何度もまばたきをした。一体、どうやって、あのような公害を克服したのであろうか。長く郷里を離れていた私は浦島太郎になったような気分だった。昨年、市では下水道の普及率が百パーセントを達成したらしい。その歴史は、鹿児島本線のスペースワールド駅の傍に建つ、市の「環境ミュージアム」で見ることができる。洗濯ものを干すと、毎日、工場の煙で黒く汚れて困っていたという戸畑の主婦たちが、エプロンを白衣に着替えて科学実験を試み、始めたというこの街の公害克服の歴史は興味深い。

関門海峡と門司港

あまり知られていないが、この街は魚がおいしい街で、鮮魚の消費金額は富山市に次いで、全国2位である。対馬海流が沖を流れ、水深のある玄界灘、狭い海に潮の満ち引きによって渦が巻き、川のような激しい潮流が走る関門海峡、干潟があり、満ち潮のときには遥か沖まで歩いて行ける豊前海という性質の異なる三つの海に囲まれているという、地理的な条件により、様々な種類の魚介を味わうことができる。玄界灘で獲れるイワシやサバをぬか床で炊く「ぬかだき」は、小倉の郷土料理として有名だし、新鮮なサバを生で食べる「ごまサバ」も、地元の居酒屋には必ずある肴だ。沖合では、サワラ、シイラ、アラ(クエ)、マグロなどの大型の魚も揚がり、切り身で売られる。また、岩場では、刺身や煮付にするとうまいタイ、チヌ、メジナ、アラカブなどの白身の高級魚、肉厚の甲イカややわらかい赤イカなどもうまいし、酢じめにして酒の肴にはもってこいのコノシロ(小肌)もよく食べる。色々獲れるが、夏場の藍の島のバフンウニの味などは絶品である。

関門海峡ではなんといっても冬場のフグ料理が有名で、門司港へ行くと大皿にトラフグの身を薄切りしたフグ刺しをたべさせる店が多くある。また、カナトフグなどの天ぷらにして食べる小さくて安価なフグもよく獲れる。私は、この身離れのよいカナトフグの天ぷらを骨からペロリとはがして食べながら、焼酎の湯割りを飲む。

激しい潮流に鍛えられた真ダコは身がひきしまり、特別に「関門海峡だこ」と呼ばれている。『雲のうえ』で漁船に乗って漁の取材をしたときに、海中から引き上げられたタコ壺から出てきたばかりのタコが、甲板の上を、立って火星人のように歩いたのを見たことがある。本当の話だ。ゆでて薄切りにして食べると歯ごたえがあり、かむほどに旨味が出てくるのだ。

関門海峡といえば門司港駅である。この駅はかつて九州鉄道の起点であった。当時の面影を残す古い駅舎は、この街のシンボルになっていて、すぐ傍らには九州鉄道記念館がある。駅舎の改札を出ると関門海峡のすぐ目の前で、対岸には下関の街が見える。

この海峡は、源平合戦の壇ノ浦の戦いや、巌流島での宮本武蔵と佐々木小次郎の対決、長州藩が外国艦隊と戦った下関戦争などで有名だが、私にとっては、子供の頃から見慣れたものである。しかし、遠方から遊びにやってくる友人たちが、見に行きたいというので、そんなときはもっとも海峡の幅が狭く、流れのはやい潮を見ることができる「和布刈神社」へ連れて行く。日に数百隻の国内外のタンカーやコンテナ船などの大型船をこれだけ間近に見ることのできる場所は、他にないだろう。なかなかの迫力で、私は黒い潜水艦が頭を出して通過するのを見たことがあった。頭上には関門橋が架かっていて、大型のトラックが絶え間なく行き来をしているのが見える。少し歩いたところには、本州まで歩いて行ける人道トンネルもある。

門司港には、この海峡で漁船に油を売り、一代で出光興産を作った出光佐三の「出光美術館」がある。私はここへ行くと、国に内緒で中東に自前のタンカーを向かわせたなど、本当にこんなことが出来るのかと、いつもため息をついてしまう。

門司港では、夕刻、まだ明るい時間から「きく湯」という銭湯につかり、「富美」に寿司を食べに行くというのがお決まりのコースだが、そのあと、もと芸者のママがやっている「燦」という、ちょっと高級なバーへ立ち寄ることもある。

小倉 秋になると豊前海ではワタリガニ漁が行われる。ワタリガニというのは、渡り鳥と同じく、ヒレのような足で泳いで集団で海中を南下していくのだ。冬には、大粒の牡蠣も獲れる。私はここの牡蠣が好きで、殻ごとフライパンで焼いて、レモンと赤ワインビネガー、みじん切りのたまねぎのソースをかけて食べる。網元に連絡して東京の家まで送ってもらうのだが、電話をかけると大概予約でいっぱいである。ハモやクルマエビ、マテ貝などもこの干潟のある海ではよく獲れる。

小倉にある旦過市場は、戦後の雰囲気を残す現役の生活市場で、ここには豊前海で獲れる魚を専門に売る魚屋がある。なにしろ、この市場で売られる魚介は豊富で、近海の魚はもとより、川魚や鯨肉の専門店もある。合馬産のタケノコや、地野菜の大葉春菊なども、ここへ行けば売っている。春に出る、甘く小さな若松の「水切りトマト」などは、あっという間に売り切れてしまう。友人が来ると、この市場にある「赤壁」という角打ちへ案内する。

この市場から歩いて行けるところに小倉城があり、城内に「松本清張記念館」がある。東京・杉並の自宅内の書斎や書庫がそのまま忠実に再現されているが、私のおすすめは、一日に五回、無料で上映されているドキュメンタリー映画『日本の黒い霧―遥かな照射』である。占領下に置かれた時代の小倉を題材に書いた『黒地の絵』から、その後の代表作、日本の黒い霧シリーズに到るまでを、わかりやすく描き、清張文学を伝えるものだ。一九五三年に『或る「小倉日記」伝』で芥川賞を受賞した清張は、小倉の朝日新聞社に勤めていた。ながらく記者だと思っていたのだが、デザイナーだったと知って驚いた。また、太宰治と同じ、一九〇九年の生まれだということも意外だった。漫画家の松本零士さんも小倉の出身である。小倉駅のそばには「漫画ミュージアム」があり、相当な数の漫画本が収蔵されている。昼間から大人も子供もここでごろごろして漫画を読んでいる。

二人の松本の足元にも及ばないが、「北九州文学サロン」には、市内にあるTOTOの工場で焼いた私の陶板画もあるので、ついでがあったら見てほしい。

小倉には、「武蔵」という老舗の居酒屋があり、よく行く。くじらの脂身を湯引きして酢味噌で食べる「オバイケ」や、魚卵を醤油で甘辛く煮た「マコ」などの昔ながらの肴を食べさせてくれる。ここでひとしきり飲んで、バー「ビッグベン」へ向かうのがいつものコースである。小倉で最も古いバーで、熟練のバーテンダーが、うまい洋酒を飲ませてくれる。他にもいい店がたくさんあり、とても書ききれないが、懐かしい雰囲気の食堂が軒を連ねる「鳥町食堂街」や、かつて小料理屋街だったところで、若い人たちが小さな酒場を営業している「新旦過飲食街」などは、なかなか風情があり、歩いてみるだけでもいい。どこへ入ってもボッタくるような店はないから旅の人にも安心である。またしても、余談ながら、魚町に「ひっしまめたん」という安い立ち呑みがあるのだが、ここにも私の大きな壁画が飾られている。

若松

洞海湾に戸畑と若松を結ぶ「若戸大橋」という赤い鉄のつり橋が架かっている。この橋は、1963年に日本の長大橋建設の第一号として架けられ、鉄の街を象徴するものであるが、この橋がつくられる以前からあった渡し船が、いまも運航している。わずか数分の乗船だが、実に味わい深いのでよく人を案内して、一緒に乗船する。若松に到着すると、銭湯へ行き、「丸ちゃん」という老舗のやきとり屋へ行く。私は老舗好きなのである。

かつて、石炭の積出港として大いににぎわった若松の街には、私の祖父母が住んでいた。若松駅前には、「花と龍」などの作品で知られる作家、火野葦平の文学館があり、すぐ近くに「カトレア」という、めずらしい醤油味のタコ焼きを食べさせる店がある。日暮れて、若松から洞海湾の海越しに眺める工場の夜景は、もっとも北九州らしい景色かもしれない。私は、この夜景を見ると、えも言われぬ郷愁がこみあげてきて、五十年前の自分に戻ってしまいそうになる。

日田彦山線 さて、小倉からの鉄道の旅はといえば、日田彦山線が私のおすすめである。小倉と田川を結ぶ日田彦山線は、北九州市小倉南区城野駅と日田市夜明駅を2時間ほどで結ぶ鉄道で、夜明駅で久大本線と合流するまでは単線である。小倉から筑豊の街を通り抜けると、山伏たちの霊山として知られる英彦山麓の、小石原峠のトンネルをいくつもくぐって、林都・日田まで続いているが、残念ながら、2017年7月の北部九州豪雨のため不通となっているので、現在、小倉から日田へ行くには、鹿児島本線に乗り久留米経由で九大本線に乗るか、日豊本線で大分を経由して行くかしかない。

二両編成のディーゼル車両は、ゴットンゴットンと山のなかの険しい鉄道を走っていく。峠を越えて田川後藤寺駅で降りると、見たこともないような赤煉瓦の煙突が2本建っている。これは石炭記念博物館という建物である。すでに筑豊では採炭が行われていないが、ここには、当時坑内で使用されていたカンテラや、掘削のための道具や機械、九州内の炭坑の分布図や炭坑主たちの紹介、炭坑労働者たちの炭住と呼ばれる住宅の復元など、炭坑に関するあらゆる資料が展示されている。巨大な煙突は、石炭を掘るために数百メートルの地中までトロッコを昇降させるために蒸気タービンを回すために作られたものである。

田川は「炭坑節」が生まれた町で、この煙突は、「あんまり煙突が高いので、さぞやお月さんけむたかろ」と、その歌詞にも登場する。盆踊りのときにかかるこの歌は、もともと三味線で伴奏されるお座敷唄であったが、昭和7年に田川後藤寺の芸妓によってはじめてレコードに吹き込まれ、戦後にラジオを通じて全国に広まった。この資料館では、元坑夫であった山本作兵衛が描いた炭坑記録画というものも見ることができる。作兵衛の一連の炭坑記録画はユネスコ世界記憶遺産として認定され、『アンネの日記』やベートーベンの楽譜などと並び称されて話題となった。

日田彦山線沿線の小石原峠にある小石原焼、日田の山のなかにある小鹿田焼の窯はいずれも昔から生活陶器を焼く窯として地元で重宝されてきた。「とびカンナ」と呼ばれる、ろくろで陶器を回しながら、薄い金属板で模様をつけていく技法で知られている。小鹿田焼の窯には、かつて日本民芸運動に参加していたイギリスのバーナード・リーチが、その技法に魅せられて逗留したこともあった。

日田の駅前には「寶屋」という食堂があり、ここに「きこりめし弁当」という、丸太に見立ててやわらかく煮た牛蒡を、杉の小さなのこぎりで切りながら食べるという、日本で初めての林業体験ができる弁当があり、新しい日田の名物になっている。

「ヤブクグリ」という地元の林業を応援する団体が作ったものだが、私もその一員である。この街には、「日田リベルテ」という、日田で唯一の映画館があり、『ひまわり』や『ミツバチのささやき』など、懐かしい名画を取りよせて次々と上映している。日田へ行くと必ず立ち寄る場所で、待合室で出している珈琲もうまい。

九州の鉄道旅、ことに、郷里に近い北部九州の旅となると、まだまだ書き足りないが、この辺で筆を擱くことにしよう。

落ち着いたいい宿を予約して、予定通りの旅をするのももちろん楽しい。けれど、何の予定も決めずに、小さな時刻表を一冊カバンにつめて、ボンヤリ車窓を眺め、見知らぬ街を気ままに歩いてまわるような旅の方が私は好きだ。たまに宿がなくて困ることもあるけれど、それもまた旅だなと思うのである。

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