自由時間手帖

JR九州

のんびり鉄道で 人生を振り返る旅を

柴門ふみ

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JR人吉駅の前に私は立っている。これから、観光列車「特急いさぶろう・しんぺい号」に乗車するためである。

九州と私の縁は深い。多分、国内で一番多く旅した地域であろう。四国生まれの私にとっては、地理的にも遠すぎず近すぎずちょうどいいのだ。中学の修学旅行が九州だったのも、距離的にも旅費的にも、ちょうどよかったからではないだろうか?

「京阪神は近すぎる。北海道、東北は遠すぎるし、東京は都会過ぎる。北陸は、ピンとこない」

そんなふうに教職員が思ったかどうかは不明であるが、中学二年の春に実施された修学旅行は九州半周の旅だった。私にとっては人生初の九州旅行である。

人生で一番ややこしい年代の、肥大した自意識を抱えた14歳の少年少女たちにとって、有名な神社・仏閣も、歴史的建造物も、興味は二の次だった(歴史マニアの生徒は違ったかもしれないが、少なくとも私はそうだった)。

「大好きな片思いの男の子に近づきたい」
「気の合わない子と同じ班で気が重い」

旅の景色を味わうよりも、そちらの方に気を取られていた私だったが、阿蘇の火口には言葉を失った。

「こんな間近にまで寄っていいのか?」

煙を噴き上げる火口は、観光する私たちの足元から数メートルしか離れていなかった。観光客を遠ざける柵もなかった。地面が突然、すとんと丸く抜け落ちていて、そこからもくもくと白煙が上がっているのだ。そんな光景は生まれて初めて見た。さらに近づいて中を覗くと、切り立つ崖の下に真っ赤なマグマが……と、思うのだが、45年以上昔のことなので記憶が定かではない。その後回った別府温泉の「血の池地獄」と記憶のイメージが重なっているのかもしれない。火口付近で友人と笑顔でポーズをとる写真しかアルバムに残っていないため今となっては確かめようがない。けれど、私が九州の凄さを思い知ったのは、阿蘇の火口であることは間違いない。

大学時代、20名のクラスメイトのうち、5名が九州出身だった。なかでも長崎と福岡出身の二人とは親友になり、夏休みを利用して私は彼女たちの実家を訪ねた。これが、人生二度目の九州旅行である。

ややこしい14歳病からは抜け出していたが、20歳前後の女子大生の頭の中には恋愛しかなかった。

長崎県佐世保出身の友人とは、観光バスに乗って長崎市内を巡った。中華街、グラバー邸など、異国情緒に触れて興奮した。しかしこれも今となってはアルバムの写真を見て

「行ったのだなあ」

とかろうじて思い出せる程度だ。が、泊めてもらった彼女の実家で枕を並べて夜通し語り合った恋話の内容は今でも鮮明に覚えている。

その話を元に、『女ともだち』という漫画も描いた。

福岡出身のもう一人の友人の実家は、福岡市内からバスで始発から終点まで乗ってたどり着いた宗像という町だった。今や宗像大社は世界遺産コースであるが、当時の私は歴史にも疎くてその有難みもわからず、ただ玄界灘の波を見て帰っただけだった。が、彼女もまた私の短編漫画のモデルになっている。

九州出身の残りのクラスメイトも、私に漫画や恋愛エッセイのネタを提供してくれている。つまり、九州女は恋に情熱的で、柴門ふみの作品に大きな影響を与えてくれた、ということなのだ。

やはり、火を噴く山のふもとで育った女は、恋の情熱も火を噴くのであろうか。

さて、結婚して家庭を持った私は、九州へ三度の家族旅行をしている。

一回目は子供たちが小学生の頃、宮崎シーガイアの巨大屋内プールで遊ぶための旅。子供がまだ小さくてうるさいため、ホテルから一歩も出ずに帰ったので九州旅行のうちに入らないかもしれない。多分子供たちも炭火焼地鶏が美味しかったことぐらいしか覚えていないのではないだろうか。

二回目は、息子の中学入学を記念しての家族旅行だった。家族で九州旅行しようという話になった時、私は真っ先に

「阿蘇に行きたい!」

と提案した。修学旅行の印象が強烈だったからだ。あの時の興奮を、息子と当時高校生だった娘にも体験させたいと思った。

熊本空港からレンタカーを借り、夫の運転で阿蘇へ。草千里を抜け、さあいよいよ阿蘇の大火口へ……のはずが、悪天候で火口付近立ち入り禁止。噴煙も見えず、手前のドライブインに設置されていた阿蘇山のパネルの前で家族記念写真を撮ったのだった。

阿蘇から湯布院に降りて行き、温泉宿に一泊して帰った。家族は湯布院の町歩きや温泉に大満足していたが、阿蘇の火口にたどり着けなかった私は、何だか不完全燃焼な気分だった。

そして三回目は、鹿児島・屋久島の旅である。屋久島の自然をこの目で見たかったのだ。しかしこの旅も悪天候のせいで、屋久杉の森も途中までしか登れなかった。フェリーが欠航したため飛行機で鹿児島に戻ったのだが、時間が足りなくて市内観光もほとんどできず、残念な気持ちで桜島を仰ぎ見て立ち去った。

そうして、2018年。大河ドラマ「西郷どん」の年である。

友人林真理子さんの原作ということもあって、歴史が苦手な私も毎回見ることにした。すると、見るごとに薩摩に染まっていき

「どうしても、また九州に行きたい」

という気分が高まってきたのだ。家族旅行での心残りを解消したいという思いも湧いてきた。

というわけで、人吉の駅前に私は立っているのだ。

「いさぶろう・しんぺい号」の「いさぶろう」は肥薩線建設当時に逓信大臣だった山縣伊三郎に由来し、「しんぺい」は初代内閣鉄道員総裁だった後藤新平に由来している。

偉人の名を冠したこの列車は、人吉から吉松まで、熊本、宮崎、鹿児島と三県をまたいで走るのだ。

晩秋の人吉駅前。申し分のない晴天の下、「いさぶろう・しんぺい号」目当てと思われる観光客の姿が目立つ。駅前広場に小さな天守閣が建っている。「人吉城」をイメージして作られたからくり時計なのだ。その前に、ぞろぞろと観光客が集まってきた。どうやらからくり時計が動く時刻らしい。

やがて臼太鼓の軽快な音楽が響き、お城の扉が開くと、ひょっこりお殿様人形が現れた。二頭身で愛嬌たっぷりのお殿様だ。この殿様が町人に扮して酒や温泉を楽しむストーリーが繰り広げられるのだ。その時間3分強。

なんとのどかな光景なのだろう。観光客たちも楽し気にスマホで写真を撮っている。からくり時計をここまで楽しめるのも、旅だからこそ。渋谷のスクランブル交差点で殿様のお忍び温泉旅行など見せられても、立ち止まる人などいないだろう。

見上げると駅舎の並びのビルに、「汽」「車」「弁」「当」と一文字一文字独立した漢字が掲げられている。赤茶に錆びかけた「汽車弁当」の看板がまた、旅愁を誘うのだった。

人吉駅の名物汽車弁当(駅弁)は、くりめし弁当である。大きな栗がごろごろと五個もおこわの上に載っかっていて、栗の形をした容器も可愛い。

汽車がホームに入ってきた。写真を撮るマニア、多数。それと中高年の団体観光客。車内は座席指定のボックス席だ。車体自体は年代物だが、内部は観光用にリニューアルされていて清潔かつ快適だった。このような観光列車は初体験なので、私はわくわくした。

やがて、発車。さっそく車窓を眺めながらくりめし弁当をいただく。甘露煮された栗の甘味が口の中に広がった。

「えびの高原線」とも呼ばれる肥薩線は、距離としては124.2キロ。スイッチバックしながら山を登り、トンネルをくぐり、1時間20分程度の旅である。

観光列車は、降りる人も乗る人もいない途中駅に何度も停車する。昔はその土地の人たちにとってなくてはならない重要な駅舎であったはずだが、今はただ山に囲まれてぽつんと佇む。しかし、ゆがんだ板ガラスや窓の木枠には、当時の面影が残っている。駅舎って、モダンで憧れの建造物だったのだ。だからこそ人を惹きつけ、今でも鉄道マニアの心をゆすぶるのだ。

「いさぶろう・しんぺい号」の窓は、昔ながらの上下に開閉できるタイプだ。11月とはいえ、寒くもなくいい天気だったので窓を開けることにした。すすきの穂が広がる向こうに、霧島連山が遠く見えた。このあたりは、日本三大車窓のひとつなのだそうだ。あいにく桜島は霞んで見えなかったけれど。

生活で肥薩線を利用していた昔の地元民たちは

「日本三大車窓を毎日眺められるなんて、なんてラッキーなのだろう」

と思っていたのだろうか。しかし、残りの二つはどこなのだろう? 残り二つを確かめて、やっぱりウチのが一番と思った人が何人いたのだろうか?、などと汽車に揺られながらぼんやり考えていた。

昔は、鉄道で国内観光旅行するのもそう簡単ではなかっただろう。そう考えると、すでに何回も九州観光旅行をしている私は幸せ者だ、としみじみ思うのだった。

子供時代は風景にも歴史にもたいして興味が持てず、旅とはただ非日常のわくわくを楽しむものだった。青春時代は友人の生まれ育った風土という興味で、旅をした。家族を持ってからは、子供たちに何かを伝えたくて旅を計画した。

そして還暦を過ぎた今、大きな目的も持たず、綿密な計画も立てず、ただ「旅」自体を楽しめるようになった。のんびりと、人生を振り返りつつ。

過去の九州旅や、九州出身の友人、その旅をした時代の自分を思い出しているうちに、汽車は吉松駅に到着した。

鹿児島県に入ったとたん、「西郷どん」のポスターがやたら目についた。私が想像していた以上に、西郷どんは鹿児島の人々にとって大きな存在のようだ。霧島温泉に一泊して翌日は西郷どんゆかりの場所などを見ることにしよう。

霧島温泉郷は、霧島山の南麓にあり、9つの温泉が点在している。町の至る場所で湯煙が立ち上がり硫黄の匂いが鼻をつく、これぞまさしく「温泉街」。丸尾温泉街にある「霧島温泉市場」では、温泉の蒸気で茹でる温泉卵も、足湯も、日本人が求める正統派の温泉街である。

しかし、そんな霧島温泉郷の山の中に、およそ似つかわしくない(すみません)お洒落なイタリアンのお店を発見した。『レストランきままな台所』。「霧島温泉市場」の脇道を登ること数分、森の中にこじゃれたガラス張りの建物が目に入った。雑貨を売るテラスと、食事のできるレストラン部分に棟が分かれている。いかにも手作りDIY的な風情で、女性二人だけで店を切り盛りしていた。パスタがメインの料理も、洗練された味付けだった。夏は庭のテーブル席が涼しそうだ。

なぜ、温泉街のはずれにこんなセンスの良いお店が?

いろいろお店の人に聞いてみたかったのだが、時間の関係もあって断念した。こういう意外な出会いもまた、旅の楽しみなのである。

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